「 種はなくとも 」
小学2年の理科の授業のことだった。
担任の佐藤先生が教壇に立ち。朝顔の種まきのレクチャーをした。
そして、一人ずつ教壇に呼ばれ、黒くて小さい朝顔の種を4粒ずつ受け取った。
「 これから裏庭の花壇に種をまきます。みなさん落とさないようにして持っていってください 」
私たちは男子一列女子一列の二列縦隊で廊下にならばされ、階段を下りて、靴に履き替え、裏庭にある花壇まで行進した。
花壇の前に立って佐藤先生が言った。
「 土に第一関節まで指を入れて穴をあけてください。そこに種を撒いて土をかぶせて下さい 」
遅まきながら、わたしは思った。
なぜ、裏庭にきてから、一人一人に配らないのだろう?
わざわざ教壇にもらいにいき、手のひらに乗せて校舎の二階から階段をおり、下駄箱で靴をはき、裏庭にまわるという手間を、何故かけさせたのだろう?
小学校2年生なんてまだまだお子様である。種を落とす可能性が大だろうに。
そんなひねくれた考えが脳裏に浮かんだ。
そして、これから種を撒くという、まさにその時、わたしは4粒の種を全て落としてしまった。
地面に落ちた種は行方がまるでわからない。
佐藤先生が「 じゃあ種をまきましょう 」と言っている。
密かに狼狽えているわたしに感づいた隣の子が「 種なくしたの? 」と聞いてきた。
わたしは、手近に落ちていた小石を三粒ほど手のひらにのせて、「 大丈夫。あった 」と言ってのけた。
そして、土に人差し指を差して穴をあけ、小石を埋めて土をかぶせ、回ってきたじょうろで水を与えた。
数日後、観察日記を書くために理科ノートを手に皆で花壇にいった。
芽が土を押し上げていたり、双葉が開いていたりと、皆の朝顔は、すべて芽吹いていた。
当たり前だが、わたしのそれはうんともすんとも言わない。
ただの地面があるだけだ。
当たり前だ。わたしが撒いたのは種ではなく小石なのだから。
それから一週間後。
奇跡が起きた!
遅まきながら芽が出た!
なんと、小石から芽が出たのだ!
いや、石だと思っていたものは種だったのかもしれない。
いやいや、それはないだろう。
一人だけ芽がでないことを不憫に思った先生が、こっそり植えてくれたに違いない。
皆は愛しい子供でも見るかのような目で、観察日記をつけていた。
ただ一人、種を落としたわたしは、他のみんなと比べ、いまひとつ愛情を注げないまま朝顔の成長をつづった。
エージロー
今回は季節をテーマに出題しました。
夏を感じる風物。
わたしは朝顔にしました。
ヒマワリでもスイカでも風鈴でも、夏を感じるものならなんでもOKです。